科学と宗教について
1. 科学と宗教
科学と宗教について思ったことを書いてみる。科学も宗教も定義すること自体が難しい言葉であるが、"科学的だ"とか"宗教的だ"というように形容詞的に使われる場合は対立するものとして扱われる。科学と宗教って何だろう?。ドラマ・新ガリレオで湯川学は科学と宗教について「信じることからはじめるのが宗教、疑うことからはじめるのが科学」と言った。ここでも科学と宗教は対立的に語られる。対立的に語られるのであれば共通点と相違点があるはずなので、その点について考えてみたい。
2. 人は世界に因果を見出す生き物
ある教授がある日の授業で科学についてこんなことを言った「科学は、この世界で起こる全ての結果には原因があり、この世界が原因と結果で構成されているという思想の上に成立するものである」。ここで言う科学は自然科学から人文科学まで広義の科学を想定してもらってかまわない。科学は自然や人間を支配する法則を見つけ出す試みと言える(科学についてを参照)が、そもそも科学には、ある結果には必ず原因があるはずだという思想が不可欠である。現象にはそれを支配する法則(因果)が必ず存在するはずだという思い込みがあるからこそ、あらゆる現象が人によって科学されてきた。教授「ある現象に遭遇した際、その現象には必ず原因があったのだと考えるのが人間なのかもしれないなぁ」。学問でなくても例えば、僕らは誰かに嫌われたかなと感じたとき、その原因について自然と思いを巡らせる。もし飼いネコに普段あげているエサをあげなかった場合、そのネコはエサをもらえなかった原因をいちいち考たりするのだろうか?
3. 科学的世界観と宗教的世界観
人は世界を原因と結果(因果)で捉えており、人類はその原因と結果の法則(因果性)を追求して科学を発展させてきた。科学による因果(科学的因果)は観測や実験により得られた客観的事実を基に見出される。では、科学が存在する以前、あるいは科学が世界の因果を説明するには力が及ばなかった古代や中世を生きた人々にとって、彼らは世界の因果をどのように見出していたのだろうか?その役割を担ったのが宗教だったのだろう。宗教といっても一概に定義できるものではないが、科学との共通点で言えば、宗教も世界の因果を説明するものと言える。宗教では世界がどのように成り立っているか、人間とは何かについての語られるが、これは科学同様に世界の因果が語られているのである。神が世界を作った、とは要するに、結果としての世界の成り立ち(原因)が語られているのである。では因果を説明するというその共通点において、科学と宗教の違いは何だろうか?それは、宗教では人の直感により因果が語られるのに対して、科学では客観的事実により因果が語られる点にある。宗教的とか科学的だとかいう言葉は要するに、客観的な事実に基づくものなのかどうかということ。
宗教の歴史を見ていて面白いのは、人にとって世界の因果は大事だが、その因果に必ずしも客観的根拠は必要ないということ。客観的事実が乏しい状況下で世界の因果を語ろうとすれば、どうしたって宗教的にならざるを得ない。客観的事実が乏しい時代の人間にとって、世界の因果はほとんど全てが宗教的なものだったと言える。世界は人間が築きあげた宗教的因果で満ちていた。その後、言語や数学を生み出した人類は、客観的根拠の乏しい宗教的な因果性を疑いながら、少しずつ宗教的世界観を科学的世界観で塗り替えていった。宗教的世界観では地球が宇宙の中心で、科学的世界観では地球が太陽の周りを回る。こうした宗教に対する科学の発展の歴史的観点からは湯川学の言う通り「信じることからはじめるのが宗教、疑うことからはじめるのが科学」である。
古代インドの世界観。蛇、亀、象によって世界が支えられている。