Floccinaucinihilipilification

フロクシノーシナイヒリピリフィケイション

鈍感な人は抽象的な思考ができる人

1. 鈍感な人

 鈍感さについて思うことを書いてみる。ある日の会話で友達が「彼女から鈍感だねと怒られた」という話をしてくれた。彼女が髪型を変えたことに気がつかなかったそうな。あぁ、僕も鈍感なのが理由でよく怒られますよ、、、という話で盛り上がった。だけど、"鈍感さ"ってのはある意味では才能なんだと、自身の鈍感さについて都合のいい解釈を僕はしているので、その言い訳について書いてみる。

 

2. 人はみんな音痴

 最近面白い動画「猫と暮らす」を見た。解剖学者の養老孟司さんが人と動物の違いについて話をしている動画。人と動物の違いって何だろう?養老さんは人の特異的な能力として"同じ"にしてしまうことを挙げている。人と動物の違いなんて、二足歩行だとか道具を使うだとか色々な定義の仕方があるだろうけど、解剖学者の養老さんは、あくまで生物学的に人と動物の違いを捉えている。動画では"音"を"同じ"にすることについて説明がなされる。音の高さは空気の振動の速さ(ヘルツHz)として物理的に定義することができるが、人にとって音の高さの絶対的な値はさほど重要ではない。ほとんどの人が相対音感で音を捉えている。音楽をやる人にとっては何Hzは重要かもしれないが、それでも演奏者全員で同じだけ高さをずらしてしまえば聞いている人にとってさほど問題ではない。一方で、人を除く動物は全て絶対音感で音を捉えているんだそうな。音に関して物理的に最も明確な高さという違いを無視して音を感じる、人の相対音感は生物界ではかなり異例な感覚なようだ。そして、人はこの音の高さを無視することにより、言葉によるコミュニケーションを行っている。例えば、誰がどんな音の高さで"リンゴ"と言おうが、それは同じリンゴ指す言葉として理解される。人は音の高さを"同じ"にしてしまう、つまり、音の高さに対して鈍感になることで、言葉を通じてコミュニケーションをしているのだ。また、そもそも言葉は"同じ"にしなければ生まれない。それぞれ個別のリンゴの形や色の違いを無視して"同じ"として捉えることによってはじめて、共通のリンゴという言葉として表現することができるのだから。

 

3. 絵が下手な人

 絵について、デザイナーの山中俊治さんが自身のブログ「デザインの骨格」でこんなことを言っている「面白い事に、言語的論理的思考の優秀な人間ほどしばしば、"かたち"を見ていていないことに気がつきました。"なるほど、わかった"と判断したとたんに、そのものを見なくなるのです。」うん、なんとなくだけど、頭がいい友人には絵や自画恐ろしく下手な人の割合が多き気がする、、、。頭がよく絵が下手な人ほど、視覚的に鈍感に細部を無視することで全体像を把握しているのかもしれない。

 

4. "同じ"にするとは抽象化するということ

 人の"同じ"にしてしまう能力はいわゆる"抽象化"という言葉で表現できる。抽象化とは対象から重要な要素を抜き出して他は無視すること。人は抽象化によって、あらゆる物や現象に対応する言葉を作ってきた。世界に全く同じ物や現象は存在しないが、それら個々の小さな差異を無視する(抽象化)ことによって言葉が生まれる。また、自然科学の世界では、現象が数学という記号によって表現されるがこれも抽象化である(科学とは? "実空間と情報空間をつなぐもの")。抽象化のメリットは、いったん抽象化できてしまえば、細部に囚われずに物や現象を把握することができること。また、言葉や数学を論理的に展開することで演繹的に色々なことが言えるようになること、またそのようにして作られるのが理論である。言葉を使うにしろ数学を使うにしろ抽象化はあらゆる学問において理論を生み出す要である。

 もう少し具体的に例を挙げれば、歴史は、人間が織り成す無数の出来事から、その大半の出来事を無視することで影響の大きな出来事のみを抽出し(抽象化)、それらを論理的につなぎ合わせることで作られる。物理では様々な物の運動が運動量保存則(F=ma)として表現されるが、日々目にする様々な運動をたったこれだけの数式で表現してしまうなんてこれはもう抽象化の極みといって良い。生物学ではメンデルがエンドウ豆のしわや形といった形質を記号化(AABB×aabb)することで遺伝の法則を生み出した。

 

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     エンドウ豆の形質を記号化することで遺伝の法則を発見したメンデル

 

4. 鈍感さと繊細さ

 ある現象を同じものだとひとくくりにして理解する"抽象化"には、細部を気にしない"鈍感さ"が不可欠なのかもしれない、と、女の子から鈍感さを指摘された時には言い訳でもしてみようか。ここまで"鈍感さ"の重要性を説明してきがた、一方で、ある現象を適切に抽象化するには細部に注目する"繊細さ"も必要だということも述べておく。あらゆる細部まで含んだ抽象化でなければ、それは正しくないただの思い込み(単純化)となってしまう。居酒屋で聞く「あの上司は~という性格だからダメなんだ」なんて理論はアホの単純化そのもの。細部まで見る繊細さに基づく大胆な抽象化。女の子からのモテるためにもそういった繊細な鈍感さが重要である。

科学と宗教について

1. 科学と宗教 

 科学と宗教について思ったことを書いてみる。科学も宗教も定義すること自体が難しい言葉であるが、"科学的だ"とか"宗教的だ"というように形容詞的に使われる場合は対立するものとして扱われる。科学と宗教って何だろう?。ドラマ・新ガリレオで湯川学は科学と宗教について「信じることからはじめるのが宗教、疑うことからはじめるのが科学」と言った。ここでも科学と宗教は対立的に語られる。対立的に語られるのであれば共通点と相違点があるはずなので、その点について考えてみたい。
 

2. 人は世界に因果を見出す生き物

  ある教授がある日の授業で科学についてこんなことを言った「科学は、この世界で起こる全ての結果には原因があり、この世界が原因と結果で構成されているという思想の上に成立するものである」。ここで言う科学は自然科学から人文科学まで広義の科学を想定してもらってかまわない。科学は自然や人間を支配する法則を見つけ出す試みと言える(科学についてを参照)が、そもそも科学には、ある結果には必ず原因があるはずだという思想が不可欠である。現象にはそれを支配する法則(因果)が必ず存在するはずだという思い込みがあるからこそ、あらゆる現象が人によって科学されてきた。教授「ある現象に遭遇した際、その現象には必ず原因があったのだと考えるのが人間なのかもしれないなぁ」。学問でなくても例えば、僕らは誰かに嫌われたかなと感じたとき、その原因について自然と思いを巡らせる。もし飼いネコに普段あげているエサをあげなかった場合、そのネコはエサをもらえなかった原因をいちいち考たりするのだろうか?
 

3. 科学的世界観と宗教的世界観

  人は世界を原因と結果(因果)で捉えており、人類はその原因と結果の法則(因果性)を追求して科学を発展させてきた。科学による因果(科学的因果)は観測や実験により得られた客観的事実を基に見出される。では、科学が存在する以前、あるいは科学が世界の因果を説明するには力が及ばなかった古代や中世を生きた人々にとって、彼らは世界の因果をどのように見出していたのだろうか?その役割を担ったのが宗教だったのだろう。宗教といっても一概に定義できるものではないが、科学との共通点で言えば、宗教も世界の因果を説明するものと言える。宗教では世界がどのように成り立っているか、人間とは何かについての語られるが、これは科学同様に世界の因果が語られているのである。神が世界を作った、とは要するに、結果としての世界の成り立ち(原因)が語られているのである。では因果を説明するというその共通点において、科学と宗教の違いは何だろうか?それは、宗教では人の直感により因果が語られるのに対して、科学では客観的事実により因果が語られる点にある。宗教的とか科学的だとかいう言葉は要するに、客観的な事実に基づくものなのかどうかということ。
 宗教の歴史を見ていて面白いのは、人にとって世界の因果は大事だが、その因果に必ずしも客観的根拠は必要ないということ。客観的事実が乏しい状況下で世界の因果を語ろうとすれば、どうしたって宗教的にならざるを得ない。客観的事実が乏しい時代の人間にとって、世界の因果はほとんど全てが宗教的なものだったと言える。世界は人間が築きあげた宗教的因果で満ちていた。その後、言語や数学を生み出した人類は、客観的根拠の乏しい宗教的な因果性を疑いながら、少しずつ宗教的世界観を科学的世界観で塗り替えていった。宗教的世界観では地球が宇宙の中心で、科学的世界観では地球が太陽の周りを回る。こうした宗教に対する科学の発展の歴史的観点からは湯川学の言う通り「信じることからはじめるのが宗教、疑うことからはじめるのが科学」である。
 

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           古代インドの世界観。蛇、亀、象によって世界が支えられている。
 
 宗教的世界観は人間の直感による世界の因果から成り立っており、対して科学的世界観は実験や観測を通じて得られた客観的事実に基づく因果から成り立っている。人間の直感に依るものか(宗教的か)、あるいは観測や実験的事実に依るものか(科学的か)という点が科学と宗教の違いであると言える。一方で、宗教と科学のどちらも世界の因果を説明するためのもの。また、どちらも世界は原因と結果で成り立っているという人間の普遍的認識から生まれたものであり、そのような観点からすれば「科学も宗教も人が世界の因果を信じることから始まる」のである。

科学とは? "実空間と情報空間をつなぐもの"

1.科学とは? 実空間と情報空間をつなぐもの

 ある教授がある日の授業で科学とそれを扱う科学者についてこんなことを言っていた。教授曰く、「僕ら科学者がやっていることは、実空間を情報空間に書き換える作業といっても過言じゃない」。科学といっても自然科学(物理学、化学、生物学等)、人文科学(哲学、心理学)、社会科学(社会学、政治学、歴史学)と様な学問分野を指すが、ここで言う科学は自然科学をイメージして頂きたい。授業はその後、実空間と情報空間についての話へと続く。実空間とは実際に僕たちが生きている空間のこと。地球が自転しながら太陽の周りを公転したり、風が吹いたり雨が降ったり雷が鳴ったり、物が落ちたり、壊れたり。対して情報空間とは、人間によって生み出された記号により作られた空間のこと。映画マトリックスを見た人は無数の記号が画面を覆い尽くすあのイメージ、あの記号たちによって再現される空間が情報空間(仮想空間とも呼ばれる)である。実空間もある法則と、その法則の組み合わせにより構成されているものだと考えれば、その実空間を支配する法則のひとつひとつを記号化し、それら記号化された法則を組み合わせることで実空間を情報空間として再現することができると言える。

 

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   記号によりあたかも実空間のように再現される情報空間、映画"MATRIX"の世界

 

 科学とはつまり"実空間を情報空間へと記号化する試みである"と言えるかもしれない。人が実空間に見出した法則を記号化する際、曖昧さや不正確さをなるべく排除するため、人間が生み出した記号の中で最も無機的で論理に厳格な記号"数学"が使用される。例えば、物体の運動という実空間の現象(実現象)の中に、運動量が保存されているという法則を人は見出し、その法則を運動量保存則(mv=m'v')として数式により記述した。対象が気体であれば気体の状態方程式(PV=nRT)や、流体であればナビエ・ストークス方程式など、自然科学における様々な実現象を人は数学により記号化してきた。現象を支配する法則を一度記号化できれば、その法則を数学的に正しく組み合わせることで情報空間として再現することができる。コンピュータシュミレーションというのはまさに記号化された情報空間による実空間の再現そのもの。例えば、コンピュータによる流体解析CFD(Computational Fluid Dynamics)では、光や音や熱や空気の流れといった物理現象の記号化された法則が、コンピュータを用いて高速に反復計算されることで物理現象が情報空間として再現される。もし科学者たちによって、世界のあらゆる現象が記号化されれば、実空間と何ら変わりのない情報空間を創造することができるかもしれない。